文フリが迫ってきたので、何か一言

 ども、山田です。そろそろ十月も終わりですね、俺は忙しすぎた九月の反動からか今月何もしてないような気分です。10月19日の早稲田シンポにも行こう行こうと思いつつ(東さんも宇野さんも来るし、自分の学科の先生も出るし)、当日寝坊というどうしようも無いことをしてしまいました。その後二時からバイトだったので残念ながら出席できず。行きたかった〜! すっげぇ行きたかった。午前だけでも。後から聞いた話によるといろいろあったらしいのですが、そういうことに参加してないことに何となく自分が歴史の当事者ではない感じがしてきます。ああ、これって昔を思い出す感じです。ほら、アレなんですよ。俺は昔からクラスに一人はいる、あれ君いたの? みたいな決して表舞台には出没しないような人だったんです。何でかって言うと、やたらと声高に自身の存在をアピールするってことがあまり好きではなかったからなんですよ。俺的にはそのスタンスに昔かたぎの職人をイメージしていたのですが、周囲の評価は異なるらしくただの暗いやつだと思われて終了です。こういうポジションだと世の中を生き抜くのに損だな、と気づいたのは高校卒業して探偵になったときですね。営業とかもやったんですが、失敗だらけでやっぱり喋りって大事だと学びました。それ以降は何となく営業の失敗も減って来た気がします。で、批評家ってまさにその喋りがダイレクトに生きてくる立場です。書かれたものでも発話されたものでもそうなんですが、雄弁であるということが最も重要なはず。社会の荒波に揉まれ探偵を辞めた後、俺としてはそれを目指して文章を書く道を選択することを決意し、いろんなことをそうしたことに準じて決めたわけです。いや、文フリも迫って来たわけだし俺がそういう人なのかちょっとでも書こうと思って。他の人に比べると何も喋ってないかなーって気がするんで。
 というわけで俺の書いた批評も大体こうした方向性を目指したものになっています。何かいろいろなことを喋りつつもその中に異化効果的な言語を入れたりとか。あ、それから某巨大掲示板(たまに見てます)でフランス乞食は旧来の文芸批評に戻ろうとする保守的な考えだろうとか書かれたりしてますが、自分的には全くそんなつもりはないです。というのも、二次創作やライトノベルなんて旧来の文芸批評じゃまず受け入れられない。こいつらを保守的な目で批評するなんてのは不可能なのです。それは『ゲーム的リアリズムの誕生』で示された環境分析が証明しています。旧来の歴史、文化といった文脈では無効化されてしまうために環境分析を使ったのです。もちろん環境分析以外の手法もあるかもしれませんね。それを発見するのが後続の役割であるとも言えるわけです。で、俺はどうするかって話なんですが、それは旧来のものを別の形で再利用することで新しく見せかけることです。リサイクルです。使えるものだけ使って作り直して、それらしく新しく見せかけます。これを巷では異化するというのではないでしょうか。それって結局保守ってことなのかというとこれもまた違う。古いものもそうでないものも溶かして混ぜることで新鮮になるのです。パラダイムシフトはすべてが新しくなるわけではなく、古いものを一部受け継ぎつつも新しくなるのです。それと同じです。すべてが新しいことなんてのはそれこそほとんど存在しない。俺たちは何かしらの親テクストと呼ばれるものに侵されていますし、そこから影響されるものがないとは考えにくい。それは人間が言語を持つ上での宿命ではないでしょうか(よく判りませんが)。とにかくそういうことで俺は旧来の文芸批評とかに戻りたくないです。
 うん、このエントリで伝えたいこともよくわからなくなってきた。でもそれってplateauよろしくってことだと思うんです。