俺たちに明日はあるのか?――フランス乞食の勝算

5時なのに夜ですね、坂上です。雷がまた鳴ってて、おっかない、高い所と雷とハチ、こいつらは、マジよくない。
本題に入る前に2ちゃんねる東浩紀スレッドで出た「Plateau」への見解に対して少しばかり意見を述べておきたいと思います。

564 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2008/10/27(月) 13:32:06 0
フランス乞食の同人誌「プラトー」の内容紹介を読んだよ。
正統派の文芸批評だなあと思った。ちゃんと文学の全体性について考えている。
クレオールという概念で捉えるようなので古くてオーソドックスかもしれないが、まあ、妥当ともいえる。
そして、最後はパロディで締めている。良く言えば前向き、悪く言えば能天気。
その文芸批評に向かう姿勢は至極まっとうなものだ。
しかし、福嶋亮大の神話社会学と比べてみると、おそらく、見劣りするのではないか。
福嶋は多文化主義的な見方を超えて、データベースを横断するような見方を提示している。
福嶋の方が現代の文化状況を的確に捉えていると思える。
しかし、フランス乞食のようなまっとうな姿勢も文学の全体性を取り戻すには愚直かもしれないがある程度は有効だと思う。
だが、最後のパロディにしたって、福嶋の作家性を排した神話の掌の上に過ぎないのではないか?
いや、しかし、実際にフランス乞食の同人誌を読んでみないと分からない…。
いずれにしろ、フランス乞食の実力が垣間見えたように思う。

で、このレスに対して二点ばかり捕捉させていただきます。第一点として、どうもレスを読む限り、多文化主義クレオール化がかなり近接したものとして捉えられているように感じますが、そうではないです。僕は多文化主義に対しては否定的な見解を持っていて、それを脱臼させるものとしてクレオール化の概念を用いています。もちろん、クレオール化と多文化主義が混同されることは予想していたので、細かい区別は同人誌本体で語っています。で、二点目。福嶋亮太さんの考える神話の上で踊っているに過ぎないのではという見解に対してですが、半分あたりで半分はずれといった感じになる気がします。パロディについて扱ったコンテンツは、初めのうち作家性を完全に排除した形で論を進めていきますが、終盤になって「実は作家性を無視するのって限界があるんじゃね?」という方向に話をスライドさせています(具体的には『キャラクターズ』を扱っている部分ですね)。僕は一応テクスト論者なんですが、ここ何年かはテクスト論的な立場をとるかどうかは状況に応じて変えることにしています。多少飛躍した言い回しになるけれど、それは作家性を排する=データベースを構築することができるか否かも個々の作品やジャンルごとに捉えなおす必要があると考えているということにもなります。なので、データベース化が可能な状況と不可能な状況とを分離して考えているという意味で、福嶋さんの見解とは結構異なった論になっているのではないかと。
しかし、こういったレスをもらえると事前に捕捉ができるから助かりますね。ありがたいことです。

で、本題ですね。ぶっちゃけお前ら勝ち目はあるのかい?って話ですね。最近周りの人間からも結構つっこまれるので、なんか答えておきたいとこですね。答えておきたいんだけど、ふたを開けてみないとわかんねーっていうのが正直な気持ちだったりするのです。ただ、フランス乞食が明らかに他のチームと異なっている点があって、それがプラスに働くかどうかが肝になるのではないかと考えています。
このブログを見てくれている方はご承知のことでしょうが、「Plateau」にはインタビューや寄稿が一切ありません。全て坂上秋成と山田あずさが書いた批評で構成されています。これは別にアポ取りが面倒くさかったとか原稿料をケチったとかいう話でもないんですが、いつの間にやら二人だけでやろうという流れになっていました。や、実際には一件インタヴューも依頼したのです。とりあえず誰でもいいから大物を呼ぶというのは正直嫌だったし、東浩紀さんのブログでもそういったインタヴューを評価するわけではないということが書かれていたので、自分達の雑誌のカラーにあった人に依頼しようということになったんですね。で、自分達のカラーというと「ジャンル横断的な文芸批評誌」ということなので、こうなると複数のジャンルにまたがって活躍している作家さんにインタヴューしたいよねと、そうすると売り上げとか俺らの好みを考えるとあのライターさんしかいないんじゃないか(誰かは察してください、このブログ見てくれてる人なら予想つくはず)ということになったんだけど、サックリ断られてしまったわけですね、世知辛いですね。それなら二人目探すかとも思ったんですが、とある人からの助言もあって、インタヴューを載せて自分達の書きたいことを押さえるというのは本末転倒なのではないかという気がしてきたんですね。考えてみればゼロアカは批評家試験なので、編集力やブッキング力を見せるよりも、自分達がどれだけの批評を書けるのかを見せる方が大事なのではないかと(特に僕らの場合道場破りである以上これまでの判断材料ないので)。そんなわけで友人や後輩に疑問視されつつもむさくるしい男二人の原稿のみで同人誌を創り上げるというスタンスに落ち着いたわけです。
じゃあそれで勝てるのかと言われるとそれはやっぱりよく判らない。そもそも文フリの客層がわからない、東さんや太田さんの基準もわからない、ゼロアカ効果でどのくらいお客さんが増えるかもわからない、ハッキリ言ってデータが少なすぎるのです。ただまあ、ぶっちゃけ男二人の同人誌よりもゲストが豪華な他チームのものの方がキャッチーだろうなって気はしますよね。無名の批評家志望と佐藤友哉が売り上げ競ったらこりゃあ厳しいだろうなと。しかし、文フリの場だったら以外とそういう計算が通用しなかったりするんじゃないかな……
そんなことをごちゃごちゃ考えてるとやっぱりよく判らなくなってくるのです。ただ、僕は(そして相方にもそうであってほしいのだけど)最高に面白い批評を書いたと思っているし、他のチームもそうだろうけど、どこにも負けない同人誌を作ったと自負しています。なので負けたら正直悔しいけれど、後悔する要素は何もないのです。文学の全体性、海外文学へ目を向けることの必要性、美少女ゲームの可能性、パロディという技法の力……僕が今回とりあげた内容はどれも現在の文学を考える上で決定的に重要なものだし、そこに対してこれまでになかった視点をいくつも提供できたと自負しています。だからまあ、勿論勝ちたいんだけど、勝って五次関門のシンポジウムで10.19事件の恥を掻き消したい(緊張するとタメ語になる癖が治ってなかったことに自分自身ビックリです)のだけれど、何よりもまずこの批評をなるべく多くの人に読んでもらいたいと思っています。おそらく文学に興味のある人に対しては相当に刺激的な内容になっていると思うので、それを共有したいなあと思っています。そんなわけで、自分達の言葉が多くの人に届きつつゼロアカを勝ち残れたらこれが一番素敵な状況なんですが、どうなんでしょう。
いずれにしてもやれることはほとんどやったので、あとはブログを更新したりしつつ当日を待つのみです。まあ、あれですね、僕は言葉の力を信じてるし、自分達の批評も信じてる。それがどうにか届くといいなあとか、そんなことをね、思いますよね。
あ、あと、同人誌のページを5ページ分公開してもいいよーというお知らせが来ました。このコンテンツを見てみたいという希望があればコメント欄にでも書いてください、対応できるかわからないけど。
そんな感じで。