ほんのちょっとだけ中身について語ってみる3

ども、最近脱引きこもりを達成した山田です。今日は『マイナー性から見る現代小説、ライトノベル』について書いていきます。思えばすべてはこの評論から始まった、割と思い入れのあるやつです。坂上に論の穴を指摘されて一万字書いた後で全リテイクを食らったり、チェックが甘すぎて赤修正ばかりになってしまったり、なぜか八月中旬から書き始めたのに完成したのは九月上旬だったりと、手のかかる子ほど可愛いという言葉を地でいっています。しかし、改めて読み返してみるとなぜ俺はこれを書くのにあんなに苦労したのかって思いますけどもね。評論を書くことって一筋縄じゃいかんと再認識させてくれもしました。前フリ長いですね、内容をとっとと紹介しましょう。
 評論の出発点は現代における「文学」を取り巻く状況への懐疑です。文字によって書かれたもの(「エクリチュール」と言う、書くことに関していろいろな意味を含んでいる便利な言葉があります)という点で等しいものが何故同じフィールドにあげられないのかということです。やっぱりそれは「文学」が社会や政治と切り離されていない状況を表しているんですよね。あの「エクリチュール」は「文学」で、あの「エクリチュール」は「文学」ではないっていう社会や政治と「文学」の接続です。けれども、社会や政治によって歪められた状況としてそれを捉えるならば、歪みは訂正されてしかるべきでしょう。すべての「エクリチュール」を等しく同じ視点から眺めて、同じフィールドにあげようという動きです。で、それに役立つのがジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリの「マイナー文学」っていう概念です。で、この「マイナー文学」の実践は舞城王太郎とかフランツ・カフカとか谷川流とかの作品に見出せるんじゃないかと。だからここら辺の作家の作品に詳しければ、より楽しんで読めるのではないかと思います。
 いや、ここからは適当に流し読む感じでいいです。なぜかっつうと上記を読んで誤解しそうな人がいるかもしれんので一応ここで俺の立場を明確にしようと思いまして。要は言い訳がましいかもしれないので、適当にふーんと思ってください。俺は何もライトノベルとか携帯小説プルーストとかジョイスとか伝説の大物と同等に扱えって声高に主張しているわけではないのですよ。ただ、屑山の中にも宝石が眠っているかもしれないし、それを発掘して研磨せずに全部切り捨てるってのはどうなのよと。ドストエフスキーを考えてみてください。もちろん掘る身にもなれってことはわかりますが、そこは分担できればいいと思うわけです。屑山を掘る人、良質な鉱山を掘る人っていうふうに。その屑山を掘って研磨するような批評家ってのが今までいなかったと思うんですよ。だからもし俺が批評家なるものになれたら、そんな感じになろうかなと。どこからともなく宝石を拾ってくるような。もちろんそれを認めるような下地も必要ですから、とりあえず「マイナー文学」って概念を使ってみてはどうでしょうかってことなんですよ。