「去勢されゆく読者たち」について少しだけ喋ってみる

おはようございます、坂上です。コンテンツ紹介もそろそろ終わりに近づいてきました。あれですね、それが終わって道場破りとしての勝算とかゼロアカへの意気込みとか書いたらネタが尽きるわけですね。考えてみたらこれまでどうやって更新してきたのか謎です。文学フリマまで何しようかな、なんか書評とかエロゲ評とか不愉快な日常とかを綴るかもしれません。
「去勢されゆく読者たち」についてですが、以前も簡単に紹介したように、イタリアの作家であるイタロ・カルヴィーノの『見えない都市』、『冬の夜ひとりの旅人が』における構造を論じた後、フランスの作家レーモン・クノーの『文体練習』を田中ロミオの『Cross†Channel』と比較する形で考察し、そこに新しい形でのリアリズムが生起している事態について論じるとか、そんな感じの方向性になっています。今読み直してみたけどまったくもってキャッチーじゃないですね、文章は読みやすく書けたと思いますが海外文学に興味ない人とか速攻で投げ出すんじゃないかってくらいに堅っ苦しいです。ただ、「オタク的感性のゆくえ」とは違って、扱ってる作品を読んでいない人にも面白く見てもらえるよう、あらすじ的なものは付けているんで多分大丈夫じゃないかと思います、うん、多分。
で、このコンテンツに関しては、いくぶんメタ的な視点から読んでもらえると嬉しいかなという本音があったりします。例えば、コンテンツ内で扱ったのは「読者の去勢」という概念のみですが、この論を読むことで読者という概念を批評に持ち込むことの重要性を新たに示したいわけなんですね。ようは読んでくれた人が次に批評書いたりする時に読者概念まで考慮してくれたらいいなあと。あともう一点、海外文学を扱うことの重要性というのも伝えたかったりします。そもそもPlateauは現在の日本文学を幅広く捉えなおすことを目的としているわけですが、別に洋モノを排除したいわけではないんですね。むしろ、海外文学の中に面白い要素があって、それを日本文学にガンガン応用できるんなら取り入れていこうじゃないかという姿勢です。けどまあ、こうしたやり方っていうのは従来のアカデミズムでは認められてこなかった。どうにも、邦訳を使って論文を書くなんざケシカラン的な雰囲気が漂っているわけです。ちなみに僕自身『文体練習』はフランス語なので原書も読んでますが、イタリア語はさっぱりなのでカルヴィーノは完全に邦訳で読んでいます。で、僕はこうした閉塞的な状況に昔から不満を持っていて、文体論とかやろうとするなら原書扱わないといけないだろうけど、構造的な面白さを語るんなら邦訳でもいいじゃないとか考えていたわけです。もっと言ってしまえば邦訳だろうがなんだろうが、面白い批評書けるんならドシドシ使っていけばいいじゃないと思ってるんですね。そしてそういうことを可能にするのがこれからの批評の場であり、従来のアカデミズムとは一線を画すべきだと考えています。あ、なんだかゼロアカにふさわしい発言な気がしますね。
冗談でもなんでもなく、日本文学はヤバイヤバイと言われているけど、その原因の一つとして海外文学を批評家たちが軽視してきたということが挙げられると思うのです。勿論、アメリカ文学なら巽孝之さんがいたり、ロシア文学なら沼野さんがいたりと、個別的な言及はなされているんですが、それを日本文学と混ぜ合わせて考えていくような批評がこれまでほとんど存在しなかったわけです。これはハッキリ批評家の怠慢であり、邦訳はアウトなのだよ的な制度がもたらしたファッキンな損害だと思います。翻訳による誤読の可能性を含意しつつも、それを批評に組み込むことで文学が活性化するならやればいいじゃないというのが僕の考えです。日本の枠の中だけでああだこうだ言うより、もっと余所の国の文学における達成を踏まえる方が誠実なのではと思うのですがいかがでしょう。
そんな感じで、「去勢されゆく読者たち」を読んで、コンテンツの内容だけじゃなく上述したようなメタ的な部分まで考えてもらえたら嬉しいですね。『文体練習』と『Cross†Channel』が並んでることに違和感を覚える方もいるとは思いますが、そこは上手く分析できたと思うので読んでみて評価してください。あと、「去勢」というタームについてですが、これは単に「読者の自由を制限する」程度の概念に思っておいてください、ジェンダー的なものは一切絡んでないです。あ、わかんない、なんか無意識のうちになんか入ってるのかもしれないけど、とりあえず明確な意図はないですよということで。