ほんのちょっとだけ中身について語ってみる

ども、山田です。今日は俺が「資本主義の抑圧と物語の可能性」の内容を少し紹介します。この批評の目指すところは、現代の日本における物語の必要性、意義を再検討することです。この世界に物語を持たない民族というのはおおよそ考えられない。ということは物語は人間に必ず付随してくる要素であるわけです。それにも関わらず、現代社会において最も消費される書物は美容、健康関連のもので物語に関係無いものなのです。これって、物語が身体性を失ってきているから、より現実的な書物にそれを感じているのではないか。そういう疑問から出発しています。で、そこから一足飛びに物語って必要ないのかって結論付けたり、そうじゃないよって言うためには、いろいろ検討しなくてはなりませんよね。その検討する内容が資本主義の影響下という状況そのものであり、資本主義を支える私たちの欲望であるわけです。これらが現代の物語に何らかの関与をしているならば、それを踏まえたうえで私たちが物語に接していく方法(読む、書く)を考察してみると何か見えてくるのではないかと。
 そこまで考えていざ書いてみると、これがまた難しかったです。資本主義が思った以上に扱いづらい。俺は社会学とか経済に関しては全くの門外漢なので、そういった方向で資本主義を考察することはできません。資本主義をどう扱うか、それがこの批評での大きな壁であったわけですが、そこでまたもや(何がまたもやかは、時期的な問題です。それ以前に書いた「マイナー性から見る現代小説、ライトノベル」にも以下の二人は登場します)ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリのコンビに登場してもらいました。彼らの「機械」という概念を批評の潤滑油にすることで、この問題は解決しました。原稿の締め切りは九月二十日だったわけですが、結構ギリギリまでこの問題に取り組んでいたので、もし「機械」を使うことに気づかなければplateauは誕生してなかったかも。
 理論の大枠としては、このような感じでしょうか。「機械」や「欲望」という考えを軸に第一節は書物、第二節では読者、第三節では作者とキャラクターをそれぞれ考察し、第四節では再び書物に回帰します。この理論をまとめる最後の総括においてまた、新たな問題が発生するわけですがそれは読んでのお楽しみということでここは一つお願いしたいです。

あ、もう一つ言いたいことが。今日、峰尾さんにお会いしたときに「何故、山田はプロフィール写真においてシャツをパンツの中に入れているのか」という問題が浮上したわけです。そこで、同じような問題を抱えている方がいるかもしれないということで。この場でも解決しておきます。当時、俺はアルバイトから直で打ち合わせに参上したのです。アルバイトはスーツでやる種類のものなので、写真の格好はネクタイを外したスーツなんですよ。だからシャツを中に入れているのです。