時代とは

おはようございます、こんにちは、こんばんは。地獄からの使者、山田あずさです。名乗り口上に意味を見出す、それもまた物語でしょうかね。しかし今、東映版スパイダーマを見ると時代を感じますよね。古典化したデジャ・ブというか、どこかで見た感が非常に、ああこんな時代もあったんだなと思わせる。
 ところで、時代がわれわれに強いるものってなんでしょうかね。恐らく無自覚的に時代から強いられるものってあると思うんですが、それは少なくとも作品内に確固として見出せるものではないと思います。ただ何らかの感情を呼び覚ましはするでしょうが、あまりにも感覚的過ぎて言語化はできないと思います。時代がダイレクトに作品に影響することを考えて見ましょう。
 仮に作家が時代に影響を受けたとします。そこで作品にもそうした考慮を反映させた。こうした反映を見出すには、大多数の作品からそれを共通項として括らなくてはいけないはずです。だってそうしないと可視的ではないですからね。把握できないです。ゆえに特定の、あるいは幾つかの作品にこうこうこういう反映が見られる、だからこの時代の実情と照らし合わせてこうだったんだ、と断言することはできないはずです。ここにはいわゆる学問的文学の弱点も孕んでいます。これはジュネットも言っていることなんですが、あらゆる知を我々が保持することは神でもない限り不可能であることと同様に、全ての作品を分析対象にするというのは物理的に不可能です。つまり一部の作品を取り上げて作家はこういう時代だからこういう影響を受けているってやるしかない。これって旧来の実証学的作家論とどう違うんですかね。わかる人教えてください。
 時代からの影響という要素を考慮するならば、仮に読者が作品に時代からの反映を読みとった、とするしかないわけですよ。しかし、この場合も、作家が時代に影響を受けたとする場合に否定的なある共通部分があります。それは作品を読む、つまり判断するのは読者であって、作者が一方的にこの作品はこうだと断ずるわけではない。確かに作品は作者によって創作されるけれども、読者は自由に解釈する権利があるわけです。作品と時代を結びつける具体的な何かを見出すにはわれわれは余りにも無力である、あらゆる作品の分析は不可能であると同様です。
 唯一違うのは、作家論ではなく読みの問題になるということです。われわれ読者の大多数がある作品にこういう時代性を見出したとします。まずそういう複数のコンセンサスが必要になるわけです。でもそれってマジョリティの論理になってしまうわけですよ結局。多数決です。多くがこういうこと言ってるから今はこういう時代で作品からもわかるよねと。声がデカイやつが得をするってのと何らかわりはなくなってしまう。今は大きな物語が終わって、小さな物語がごった返しているという状況であると論じるならば、おかしくないでしょうか。だから作品から時代を読み取るとか、時代から作品を論じるってのに何か違和感があるわけです僕は。そもそもエクリチュールに時代って持ち込めるんですかね。教えて偉い人。
 と宇野さんの本を読みながら思ったわけです。