『ゼロ年代の想像力』についてちょこっとだけのおしゃべり

こんにちは、坂上です。昨日は知り合いの誕生日パーティーに行ってきました。なんでメキシコ人はいくらテキーラを飲んでも酔わないんですかね。貧弱な肝臓しか持たない僕はかなりの二日酔いっぷりを発揮しています。

同人誌の製作状況について。僕の方で同人誌全体の核にしたいと考えている批評の構成があらかた決まってきました。今日相方と打ち合わせがあるので、そこでゴーサインが出たらすぐに文章にするつもりです。時間的なことを考えると8月6日までには書き上げたい。二万字程度を予定しています。あ、あとあんま細かいことは言えないんですけど、そもそも何の話をしているのかもわかってもらえないかもしれないけど、や、ほんと察してくださいとしか言えないんだけど、契約してみたら現れたのはセイバーだったという感じなんですね、現在。あとは僕らがシンジ(間桐のほうね)で終わるか凛になれるかという問題ですね、頑張ります。

ゼロ年代の想像力』、やっぱり触れておきたいですね。ブログだけじゃなく同人誌の方でも。なのでこの場では感想文程度のことしか書けないんですけど、ちょこっとだけ。
でっかいジャンプを試みたけど履いていたのはスキー板じゃなくてスノーボードだったみたいな印象です。飛距離も足りてないしそもそも方法からして間違っていますよみたいな。二点だけ指摘しておきたいです。
セカイ系が頽落してそこから決断主義に移行したという主張はそれなりの説得力があります。デスノートが売れたのも事実だし、クドカンが面白かったのも事実。けれど「セカイ系は終わった、今セカイ系やってるのは90年代の残滓だ」みたいなバッサリ感はどうなんでしょう。ハルヒが出てきたのだってゼロ年代だし、巧妙に隠蔽されてるけど『マブラヴオルタネイティブ』だってセカイ系です。少し変化球気味になるけどセカイと接続できないことへの意識をセカイ系的な感性で書いた『となり町戦争』や『わたしたちに許された特別な時間の終わり』のような作品もごく最近のもの。そして今挙げた作品群はゼロ年代においても相当な影響力を持っています。こうした作品群を「残滓」として片付けるのはあまりにも繊細さに欠けた言説です。決断主義的な作品群とセカイ系的な作品群とが非対称的に存在しているとする認識が真っ当ではないでしょうか。決断主義というタームに酔いしれて状況を安易にカテゴライズしすぎです。
もう一点。クドカンを使ってAIRをやっつけても意味ないです。宇野のAIR批判自体は一定の強度を持っているものですが、総合的に見て宇野のやっていることはフランスで蝶が羽ばたいたからシカゴで台風が起きたと主張しているようなものです。批評を行うのであればそこで扱われる作品たちに何らかの連関がなければならないはずです。宇野にはその視点が決定的に欠けている。「表象」とか「文化」という土台だけで全てをごちゃ混ぜにするのはセンスに欠けるし、何よりも意味がない。視野を広く持とうという姿勢には共感できますが、それで肝心の分析が雑になるようではいかんでしょう。それだったら狭いフィールドでしか通用しない言説の強度を高めるほうがいい(もっともそれを許容しすぎたから今の状況があるわけで、そこを指摘している点で宇野は確かに状況が見えているとも言えるのですが)。ヴィクトル・ペレーヴィンが新作を書いた、それでクドカンは乗り越えられた。極端な話、宇野の論理ではこうした無謀すぎる言説を批判することができなくなります。レイプ・ファンタジーなどと物騒な単語を使う前に自分が本当に作品に対して真摯に向き合っているのかを考えたほうがいい。AIRのストーリーに援助交際的な側面があるという指摘を受け入れるにしても、使われている楽曲であったり、「夏」のイメージであったり、そうしたものから生まれる非論理的な叙情性を全部排除してレイプ・ファンタジーなどと切りすてるのはやはり暴力的に過ぎます。
こう書いても宇野さんは「憤怒したオタクのたわごと」して切り捨てるのでしょうかね。

ただ耳の痛くなる話もたくさんありました。特にグッサリきたのが「おまえら東浩紀に洗脳されすぎなんだよ!!」という指摘。自分でもそんなつもりはなかったんだけど、確かに僕も批評について考える時、いつも東浩紀がとりあげる作品から始めてしまうようなところがある。コードギアスを批評の対象として捉えたこともない、というのは我ながら情けない話です。その他にもこりゃあ慧眼だと思えるような指摘はたくさんありました。問題意識も明確だし、状況をなんとかしたいという意欲にも賛同できます。その意味では良書なのですが、もう少し作品に対する敬意なり繊細さなりを持つべきです。

ちょこっとだけのおしゃべりでした。細かい話はまた同人誌で書きます。