「パロディの世紀と文化の未来」についてちょこっとだけ喋ってみる

グッドモーニン、坂上です。最近毎日ゼロアカ関連の夢を見ています。大分プレッシャーを感じているようですが、これでウダウダしてると他の作業ができなくなるので割り切って頑張ります。
いよいよコンテンツ紹介も最後になりました。「パロディの世紀と文化の未来」、随分と大仰なタイトルですね、もう少し軽やかなステップを踏んでも良かったような気がする。「ぐれいとぱわあ いん ぱろでぃ」とか「a song for parody」とか、そんなタイトルを考えてもいたんですが、アホっぽい+痛いということで没にしました。しかし、そうした痛さを引き受けるのも新しい批評のあり方なのかとも思ったりします。
このコンテンツは「ゼロアカ優勝後に出版したい本の自著要約」になっています、道場破りはこれを同人誌に載せなければいけないという規定があるのです。当初は意識してなかったのですがこの縛り、予想外にキツかったですね。なんでかって言うと、本来20万字とかの分量を必要とする内容を1万字にまとめなければいけないということになると、かなり論を圧縮しないといけないことになり、どうしても読み物としての魅力に欠けやすくなってしまうんですね。要約ということでひたすら内容をつめこんで箇条書きのレジュメみたいなものを作ってしまおうかとも考えましたが、あくまでもこれは同人誌に載せる原稿、買ってくれた読者を退屈させるものであっていいはずがないのです。そんな感じで悪戦苦闘した結果(なんかいつもしてますけど)、コンテンツとしても面白く、本を出したいという熱意も上手く表せたものになったかと思います。
パロディ、パロディね。なんか今更感の漂う言葉ではありますよね。『シミュレーショニズム』とかあったしもうパロディとかよくね?という罵声が飛んできそうです。しかし、美術や音楽の領域は別として、広義の文学においてパロディの重要性や理論について述べてきた言説というのはこれまでなかったように思います。いまだにパロディというとオリジナルに比べてショボいとか、パクリだとかいうのが一般的な見解になっている気がするのです。けどまあ、実際にはパロディっていうのは物凄い力を持っているわけです。それは文学的な価値という側面からも語れることですし、もっと言えば人間の根源的な欲望とも結びついた技法だったりするんですね。そうであるにもかかわらず、僕らはいまだにパロディという技法がどういった効果を持つものなのかについて十全な理解ができていない、それどころかパロディってなんなん?って訊かれてもパクリや剽窃と区別して説明することができない。この辺りに僕は不満を感じているので、パロディに積極的な意味を与えていこうじゃないか、そして多くの物語を全く新しい視点から捉えなおしていこうじゃないかという提案をしたいわけです。
ちょっと具体的な話に入ります。「パロディの世紀と文化の未来」は5章構成になっています。大雑把な言い方をすれば、序論、理論編、物語編、キャラクター編、現実編、終章といった感じですね。
序論はまあ問題提起です。なんで今パロディなん?とかパロディってなんの意味があるん?みたいな疑問に答える形での簡単なものです。理論編では、パロディが持つ「転倒」の力についてリンダ・ハッチオンの議論を参照しながら考察していきます。ハッチオンはバフチンの理論なんかも自分の著作に組み込み、アンディ・ウォーホルなんかにも言及しながら議論を構成する人で、なかなかに刺激的な著作を書いている人です。オススメです。しかし、オススメなんですが、理論についてあまり長く語りたくないという僕の都合により出番は少なめです、うん、ごめんなさい。
ここから論は具体的な作品分析に入っていきます。物語編ではボルヘスの短編である「ドン・キホーテの著者、『ピエール・メナール』」を扱い、パロディの持つ効果を見ることになります。これ、かなり整理した形でまとめましたが、相当に衝撃的な内容になっているかと思います。きっと読んでくれた人はパロディの力にビビると共に、ボルヘスという作家の偉大さを確認することになるはずです。や、マジな話、僕らの同人誌を買わない人でも、この部分だけ立ち読みしていってもらえたらいいなあと思います。パロディの凄さについて物凄く端的に理解してもらえると思うので。
で、次にキャラクター編ですね。おそらく相当にキャッチーな内容です。や、別に客つかむために書いたわけじゃなくて、今の日本の文化状況を見るに、パロディについて考えるならニコニコ動画コミケにあふれる二次創作物について触れないわけにはいかないのです。そしてそうした二次創作物を支えているのがキャラクターという概念なのでこれを議論の骨子に持ってきました。ザックリ言ってしまえば、この章は東浩紀伊藤剛の論を越えて行くものになっています、その成否は置いといて、とりあえず目的として。具体的には『動物化するポストモダン』で東さんが述べたデータベース論の修正と、伊藤さんが『テヅカ・イズ・デッド』で提案したキャラ/キャラクター分類の変更ということになります。これは相当に面白い議論になっているはずです。動ポモファンやキャラクター論に興味がある人は楽しくてしょうがないんじゃないかと思います。議論は「ハルヒ」と『CLANNAD』を比較する形で進んでいきます、CLANNADよりもハルヒの方がオタク受けしている感があるのは何故なのか?長い間みんなが抱いてきたこの疑問(きっと抱いてきたはずだ)は本章の議論でひとまずの解決を見るのではないかと思います。あとは『げんしけん』や『戯言シリーズ』がちょこっと登場するとか、そんな感じですね。
最後に現実編です。んー、現実編と言われてもピンとこないと思いますが、あまり説明するとこれに関してはネタバレになってしまうので、気になった人は買ってくださいという感じですね。扱った作品は岡田利規の「三月の5日間」(『わたしたちに許された特別な時間の終わり』に収録されているやつですね)と東浩紀桜坂洋の『キャラクターズ』になります。これ、『キャラクターズ』に関しては物凄くよく書けたと思っています。おそらく、今現在これについて書かれた批評の中ではダントツなんじゃないでしょうか、客観的に見て。著者である東さん、桜坂さんの狙いとはズレるのかもしれませんが、確実に『キャラクターズ』という小説の魅力を引き出すことに成功しています。
終章はまあ当日のお楽しみということにして、内容についてはこんなものでしょうか。いずれにしても、パロディってすげえんだよっ!!という主張のためにこの批評は書かれています、感動してもらえれば幸いです。著書として出版する機会に恵まれたら、書き手や読み手の意識を丸ごと変えてしまうような一冊に仕上げたいと思っています。
そんな感じで、長く続いたコンテンツ紹介も終わりです。全部読んでくれてる人、いましたらありがとうございます。気になったコンテンツがありましたら、当日見本誌で立ち読みしてください、そして興味が沸いたら買っていただきたく思います。ハズレ、ないです。広い意味での文学を愛する人へ、魂込めてゆるやかながらも誠実に書きました、期待して手にとっていただけると嬉しいですね。それでは。

おまけ:酔っ払いながら書いたボツ原稿(執筆方針+序論みたいな感じ)

批評家の東浩紀さんと講談社の共催?みたいな形で行われているゼロアカ道場という企画があって、僕はそこに道場破りとして参加してどうにか勝ち残るために同人誌を作っているわけなんだけど、道場破りの規定として「ゼロアカ道場を勝ち抜いてデビューした後に出版したい本の要約を載せなければならない」というのがあって、この先連綿と続く文章はその出版したい本の要約にあたるわけだ。けど、考えてみればまだ出版されてない本を要約するっていうのも奇妙な話で、僕はいささか困惑してしまい、道場破りとしての参加を決めてから、友達や先輩や後輩と酒を飲むたびに「要約ってどうしたもんすかねー」という話をしていたのだけれど、帰ってくる答えは大体同じで、「1.問題意識をハッキリさせる 2.論旨を明確に 3.要約である以上簡潔に記す」みたいな感じだった。で、そうした答えに僕はだいぶウンザリした。どれも重要なことなんだけど、その3つに絞って文章を書いたらそれって単なるレジュメになってしまうだろと。要約なんだからレジュメっぽくていいじゃんと思われるかもしれないが、まがりなりにもこれは同人誌に載せて人様から金をとろうという文章なんだから、あまりに無味乾燥な文章を書いて皆様を退屈させてしまったら僕のナイーヴな心は非常に圧迫されてしまう。なにより、講談社の太田編集長はゼロアカ道場の趣旨として「16歳くらいの少年少女の人生を変える」ような本を書ける批評家をデビューさせることと仰っていたわけだけど、僕が16歳のまだヒゲも薄い少年だとして、ひたすら簡潔に単調な文体で記されていたらそれが要約だとしてもおそらく心動かされることはなく、サッカーをやったりフィギュアに萌えたりヤンキーになってしまう道に進んでしまうはずだ。そんな要約にはウンザリだ。ついでに、一人称に「僕」を使用することがまるで知性の放棄であるかのように扱われる言説空間にもウンザリだ。そういうわけで僕は要約としての体裁を守りつつもちゃんと読み物として面白くなるように作り上げようと誓ったのだった。のっけからこんなことを記しているわけだが、僕は別にメタ批評を狙ってカッコつけたいわけでも、文体芸を気取りたいわけでもない。本論(出版されるとしたら本書になるわけだが)における僕の狙いはパロディが持つ力を利用して既成のコードを「転倒」させられるのだと示すことにある。それなのに肝心の論が既成の要約の概念に囚われていたのでは説得力に欠けるだろうと、一応はそうした真面目な思考が背後にある。(省略)

シラフに戻ってからボツにしてよかった、うん、本当によかった。一人称は私になっています、完成稿では。