大人たちが今のマンガを愛せない理由

こんにちは、坂上です。タイトルに「大人たちが」とか入れてしまいました。微妙に俺はまだ大人じゃないぞと主張してるモラトリアムのようで嫌ですね。けれどまあ、年をとるが故のあやまちというものは認めたくないものです。
ゼロアカ道場破りですが、懸念が解消されてスッキリです。「抱き合わせ販売」と「サクラ」。この二つを僕は心配していたんですけど、どうやら問題なさそうです。や、そもそも道場生や道場破り組にそんな良識ないやつおらんやろくらいに当初は軽く構えてたんですが、どうもネットを見てるとところどころ動きがアヤシくて不安になってきたんですね。しかしまあ、東浩紀さんのHPと文学フリマの望月さんが公式見解として「ねーよ」と言ってくれたので一安心ですね。最大の心配事である「抽選漏れ」への恐怖は全く持って拭い去れないのですが。つーか8月長いよマジで、早く当落通知来てほしいものです。
今のマンガと昔のマンガ、どっちが優れているなんてことは言えません、それぞれの好みにお任せしますという感じです。ただ、今のマンガの方が圧倒的に「上手く」なっているということはハッキリ言えると思うんですね。それは技巧的な意味でもあり、マンガという表現の持つ固有性について作家たちが自覚的になってきたということでもある。
少女漫画で考えてみますと、ここ30年くらいを通して、エクリチュール重視の表現から画面を重視する表現へとシフトしてきたという言い方が可能になるかと思います。
萩尾望都先生の『ポーの一族』なんかでは、相当にエクリチュールが重視されています。大ゴマが使われると、常にそこには詩的エクリチュールが並存している。あの感動的なラストにおいても、その重要性はかなりの程度エクリチュールが担っています。ラスト3ページ、エドガーという少年について思いを馳せるジョン・オービンの台詞を抜書きしてみます。

まぼろし!? まぼろしか ああ… あれらもまた――エドガー、アラン
すべてこの夕暮れの時がつくりだした もののけの影のような 実在しないまぼろしか…?
そう思うと …わたしもこの世界も …いっさいが
この手すら
夢にみえてくる 時どきのおりなす夢に…
なんの不思議もなかったのかもしれない……
ルイスやテオやリデルが会った少年はただのふつうの少年であったかもしれない
それはエドガーではなかったのかもしれない
彼はいなかったのかもしれないのだ――――――
(ここでエドガーの顔が思い浮かぶ。それは横顔から始まり、次第に輪郭のはっきりした正面の顔へ)
いいや 少年はいた
いたとも…… わたしは知っている
わたしは見る 彼の姿 彼の声 時のはざまをかける影
そうだ… わたしは彼の話をかくことさえできる
彼の生まれた朝すら思い浮かぶ
それは この夕暮れによく似た銀色の世界
(眼を閉じるジョン・オービン。羽根つきのペン。三枚の便箋)
…そしてわたしは最初のページを始める エドガー
――エドガーおまえに わたしのはるかなおまえに そして そのポーの一族によせて――と
萩尾望都ポーの一族』※抜書き中の()は坂上による捕捉)

この抜書きでラストシーンの美しさがどの程度伝わるかは判らない。ただ、物語を締めくくる重要なシーンで詩的エクリチュールが効果を発揮したことだけ理解してもらえればと思う。そう、萩尾は言葉の力を信じている。ラストシーンだけではない、『ポーの一族』では数多くの重要な局面で登場人物の心情が詩的に語られている。これは言い換えれば、萩尾にとってマンガというジャンルはいまだ「文学的」なものだったということである。萩尾に限った話ではない。俗に二十四年組と呼ばれる漫画家たちの作品では、言葉が力強いものとして常に響く。山岸涼子も、大島弓子も、美内すずえも、みな人物の心情を詩的エクリチュールの形で――それは吹き出しに入れられず絵の中に組み込まれるようにして記される――描いていた。
現代になると、マンガ表現のあり方は変容する。決してエクリチュールの効力が軽視されるようになったというわけではない。エクリチュールの効果は保存されているが、同時に、マンガにしか表現できないものを作家たちが絵の中に発見してしまったというべきか。それは一言で表すならば「間」の概念である。
二十四年組からエクリチュールの利用法を正統に継承した上で「間」の概念を使用している作家としてよしながふみを挙げることができる。『愛すべき娘たち』の第一話、主人公の雪子は母である麻里と長い間二人暮しだったが、突然母が再婚してしまう。再婚相手は27歳、30歳の雪子にしてみれば自分より3つ下の男が父になるというわけだ。しばらくして雪子は家を出て恋人と暮らすと告げる。荷物をまとめる雪子に向かい再婚相手の青年は謝罪する。雪子の返しはこうだ、「どうして謝るの。あなたは何も悪くないわ。あなたみたいな若い人と本気でやっていけると思ってる母に私は呆れてるだけ」。遮るように青年は言葉をかける、「じゃあ俺が麻里さんより年上だったら良かった? もし俺が麻里さんより年上でもっとちゃんとした大人の男だったら雪子さんは良かった?」。うつむく雪子。「違うでしょう。たとえどんな男だって麻里さんを由起子さんから取っちゃう男は雪子さんは駄目なんだ」。「そうよ」!、眼を見開き叫ぶ雪子。ここでページが変わる。開いてみるとそこにはページの半分を占める大ゴマ。雪子が泣いている、台詞は一つだけだ。「ずっとあたしだけのお母さんだったのよ」。青年は言う、「ごめんね、でも俺、好きになっちゃったんだよ。本当に好きになっちゃったんだ」。雪子は返す、後ろを向いたまま、「分かってるわよ。だからあたしも出ていくのよ」。ここまでは二十四年組の系譜に連なる表現形式だと言える。問題となる「間」が展開されるのはここからだ。うつむいて泣く雪子。青年と入れ替わるようにして母が部屋に入ってくる。そうっと、娘の背中に顔を寄せる。そうして最後のページ。うつむく娘と背中に顔を乗せ眼を閉じる母の描写を持って物語は終わる。そこに台詞はない。
「間」の概念とは物語における余白のようなものだ。そこにエクリチュールは書き込まれていない。本来ならばそこに何かしらの意味を読み取ることは困難である。しかし、よしながは母の感情を「記さないことによって逆接的に意味づけを行う」ことに成功している。この物語では麻里の雪子に対する愛情は描写されていないに等しい。物語は母に雪子が八つ当たりをされる回想から始まり、途中においても母が雪子に語りかける口調は淡白なものだ。彼女が笑うのは、再婚相手の青年といる時、もしくは彼の話をする時。しかし、このような描写を経てきたからこそなにも台詞が「記されていない」ラストシーンが輝くのだ。麻里が雪子に向けていた愛情、それは言葉で表せるものではなかった。愛情を娘に伝えようとすれば、そこに言葉を用いることはできなかったのだ。そうであるからこそ、一切のエクリチュールが「記されない」最後のコマにおける「間」が愛情を「記す」ものとして機能するのである。これがよしなが作品の随所に見られる二十四年組から受け継いだ手法と新たなる「間」の概念とを両立して用いる手法である。
このような「間」の重要性は少女漫画以外の作品にも見受けられる。例えばげんしけん最終巻、52ページ。紙面の五分の四を占める大ゴマ。斑目と咲が共に歩いている、少しだけ斑目は後ろに下がっている、その様子が背後から描かれている、二人の表情はわからない。しかし、げんしけんを読んでいる読者ならば、この大ゴマにおける立ち位置がそのまま咲と斑目の関係を示すものとして機能していることがわかるはずである。このコマにも台詞は記されていないが、エクリチュールに還元できない感情を斑目が咲に抱いているということには多くの読者の賛同を得られるかと思う。
あ、ここまで書いて気付いたんですけど、いつのまにかですます調じゃなくなってますね。や、眠かったんで、引用してるうちに素になっちゃったんでしょうね、あの、もう眠くて。で、本題はあれですね、「大人はわかってくれない」って話でしたね、今日のタイトルからすると。でもこれって考えてみたら当たり前の話なんですよ。上で述べたようなエクリチュールの重要度が高いマンガっていうのは、言ってみれば小説なんかと同じ文法で描かれているんですね。だからマンガの特殊性とかを知らない大人たちにも受け入れられる。けど、今のマンガはそうじゃない。マンガ独特の技法を駆使しているから、そこにおける特殊な文法を知らないとついていけないんですよ。よしながふみなんか読みやすいほうです。あずまんが大王なんかに代表されるいわゆる空気系のマンガになると圧倒的に文字数少ないですからね、絵とか雰囲気からそれこそ空気を読まないと読解できないわけです。大人たちが知っているマンガのロジックと今の若い人が読むようなマンガとでは回路が違うという言い方もできるでしょう。
あ、締めの言葉も思いつかないけど今日はこの辺で。子供はもう寝る時間なので。