文学とコミュケーションの問題

 こんにちは、坂上です。盗まれた革靴が発見されました。奇跡ですね。起きないから奇跡っていうのは嘘なんですね。
 前回の三島賞の選評の中で、平野啓一郎さんが「最近コミュニケーションの不全を描くような小説が増えた」という趣旨の記述を行っています。これにはほぼ全面的に同意したいところなのですが、より正確に言うならば、「コミュニケーション不全を描いたものとして受け取りやすい(批評しやすい)作品が増えた」、かつ、「そうした作品が評価されやすい状況になっている」ということになるのではないかと思います。
 で、こうした傾向を僕自身はあまり好ましいものとして捉えていません。
 コミュニケーションに関わる問題というのは人間が生きていく上で常にまとわりついてくるものだし、しかもその様態が時代によって代わってくるのだから、それを一つのテーマとして小説を書く、ということ自体はまっとうなやり方だと思います。僕がここで問題にしたいのは、あまりにもコミュニケーションにおける「不全」、ひいては他者への恐怖心ばかりがナイーヴな形で前景化されているという点です。
 そもそも他者とのコミュニケーションが常に困難を孕むものだというのはあまりにも自明なことです。一切の齟齬が生じない会話というのは他者を前提としておらず、自分の言説を確認する(「今日仕事大変だったわ」と口にする時に「お疲れ様」という返しを予測し期待するように)だけの独我論的な行為に過ぎません。そうであるからこそ、その困難を引き受けた上で、じゃあどうやっていこうかという方法を模索する、互いの言葉がギリギリのところで繋がる結節点を探していくことが必要になるはずなのですが、多くの作品は他者を発見したところで終わってしまいます。その発見から先が勝負であるはずなのに、「あたしとあいつって別の人じゃん、マジ世界とか生きづらいわー」みたいなところでナイーヴに話が終わってしまう。これじゃあ駄目だろうと思ってしまうのですが、そういった作品に限って「現代社会を生きる上での困難を描いている」みたいな形で評価されてしまう。これは淋しいですね、いやいやちょっと待てよと言いたくなります。そんなことはみんな知っているし、わざわざ小説の形にするんなら解決策も考えようぜとツッコミを入れたくなります。そうでなければ小説というものが自分がすでに知っている事実(=現代社会の生きづらさ)をもう一度誰かに代弁してもらうことで溜飲を下ろすというような、ささやかな救いを与えるようなものに堕ちてしまうと思うのです。

 ドストエフスキーなんかはその辺りの開き直り具合がカッコイイんだと思うんですよ。バフチンの言葉を借りますが、ドストエフスキーの小説空間は非常にポリフォニック(多声的)なものになっています。この場合のポリフォニックというのは単にたくさん人がいるよねってことではなくて、出てくる登場人物たちがみんな他者として機能しているという意味です。だからこそドストエフスキーの小説においては会話が噛み合っていないように見える局面や、相手の言葉を予想して先回りしようとするようなシーンが多数存在している。その意味で彼は他者が存在することの恐怖を描いているのですが、決してそのことをナイーヴに前景化したりはしない。「僕と君とは別の人間なんだね」みたいな気持ち悪い書き方ってのは絶対にしないんですね。他者に対してビビりつつもドライなわけです。もっと言えばビビってるけどカッコつけてなんか喋ろうとする、というのがドストエフスキーの小説における登場人物たちにある程度共通している特徴で、そうであるからこそ常に会話が緊張に満ちたものとして立ち現れるんだと思います。

 そういう意味で僕は吉田修一さんの『パレード』は素晴らしい作品だと思っています。『パレード』では登場人物5人が一見するとなかよく暮らしているように見えるんだけど、話が進むに連れてお互いのことをなんにも知らないという事実が露呈してくる。緩やかな共同体の中に「もともと」存在していた他者性があらわになってくる、大雑把な言い方ですが、この小説にはそうした構造が仕組まれている。人物が他人に対して話すことのできない問題を抱えていて、その部分におけるコミュニケーションは不可能なんだけども、その不可能性を引き受けながら共同体を維持しようとする。僕にとってはこうした抵抗のほうがナイーヴな前景化よりも魅力的に映ります。