遍在する川上未映子

こんにちは、坂上です。タイトルに深い意味はありません。ただ、最近文芸誌を買うと常に一つ川上未映子さん関連のインタヴューや対談などが載っていて、なんとなく妙な気分になります。

新潮8月号に掲載されている多和田葉子さんと川上未映子さんの対談、「からだ・ことば・はざま」を読んでいたんですが、これは面白かったですね。というのも、恐らくお二人は言葉に対する感覚が凄く似ていて、それを土台にして喋っているからお互いの発言が綺麗に響き合っている印象がありました(馴れ合い的な意味ではなく)。特にリーダビリティについて語っている部分では何度も頷かされました、少し引用してみます。


多和田:かつて私は美しい日本語でない日本語がいいと言っていたけど、今にして思うと、みんながいいと思っている日本語が全然美しくないんですよ。〜なのである、〜であった、という短い文章が続いてもねえ。日本語にはもっと違う流れがあって、それが近代化の過程で人工的に絶たれていったという歴史があるわけです。美しいかどうかとは全く別のイデオロギーによって。だから、むしろそれに反発して、もっと長い流れを知ったうえで、現代の私たちの身体はどうなっているのか、というところで文体を見つけていきたいと思っているんです。

川上:日本語には、「端正な文章」とか「悪文」という言い方があるじゃないですか。それ自体が言葉による縛りなわけですが。「端正な文章に慣れている人にとっては、もう耐え難い悪文である」とか、言われます。というか、私の作品に限らず、どんなレビューを読んでも、読みやすかったか読みにくかったかがその作品の価値を決めるほとんど唯一の要素になってる(笑)。まず最初に皆んなそれを言います。他人の書いたものなんだから読みにくいのは前提だし、そのことを踏まえたうえで「リーダブルであること」について考えて肯定してるふうでもない。まあ「読みにくい」とあまりに言われすぎて、それぐらいでないと、今書く意味がないのかなと思ったりもするんですが。


勿論、短い文章を続けるという書き方が戦略的に使われるケースがあってもいいんですよ。僕だってやたらと文章が難解なライトノベルなんて読みたくないし、ロブ=グリエクロード・シモンのような文体で書くことが文学にとっての必要条件でもない。ただ、川上さんが指摘しているように、そうした短い文章を書いている人のほとんどが自分の文体について疑問を抱いていないということが大きな問題だと思うんですね。軽い文体、短い文章といったものを使うことの暴力性に対してあまりに無思慮であるというのは批判されて然るべきだと思います。川上さんと多和田さんの小説は一文一文が非常に長い、気を抜いていると主語を見失ってしまうようなこともあります。これは一見すると非合理なものに映ります。確かに近代的な観点からすれば、何かを伝達する言葉は簡素なものであるに越したことはありません。
しかし、言葉を紡ぐという行為は、なにか大きなテーマがあってそれを相手に伝えることを常に目的とするわけではありません。語りの運動=文体それ自体が目的となっていて、それでしか表現できないというケースが確かに存在するはずなのです。批評の言葉(特に文学賞の選考の場で)において「何を言いたいのかわからなかった」という文句をよく見かけますが、その小説がメッセージを含んでいるとは限らないし、含んでいなくとも充実した小説というものは成立する。内容はよくわからないけども文体に迫力があるとか、そうした点を評価し許容できるのが文学の面白さであるはずだと思うのですが。
文学の場における合理性というのは、ビジネスの場における企画書のそれとは全く異なる意味で使われるべきです。や、なにも文学に限った話でもなくて、もっと言ってしまえば非常に複雑でわかりにくい構成や文体でしか伝えられないものというのもがあらゆる言説の場に存在するはずなのです。デリダのようなフランス現代思想の思想家たちが難解な文章を記すのも別に嫌がらせでやっているわけではなく(いや、ほんとはそうなのかもしれないんだけど)、あの形式をとることで近代的合理性の範疇から漏れてしまう言語の作用を回収しようとしたのだと僕は考えています。

なんかですます調で批評っぽいこと書くのって疲れますね、やりにくいし。場合によってである調とですます調を使い分けようと思います。