移民文学とパラテクスト――『時が滲む朝』に思うこと

芥川賞の選評は常に私を不快な気分にしてきたものだが、今回に関しては全ての選考委員の言い分に共感することができた。それは私自身、『時が滲む朝』という作品の登場によっていささか困惑していることとも関係しているのかもしれない。
本作においては、中国で大学に通っていた主人公が天安門事件によって挫折し、日本に移住してそこで新たな生活を送る様が描かれる。そこには政治や国家といった問題、その中で葛藤する個人の内面の問題、国境を越えることによるアイデンティティーの揺らぎの問題を見出すことができる。なんのことはない、これは一昔前の近代的リアリズムに従った作品なのである。
そうであるにもかかわらず、私は本作を微量な興奮を伴いつつ楽しんで読むことができた。多くの人が指摘するように日本語としては拙いものの、確かにそこには作者の熱量が存在した。ただし、私はおそらくこの作品を近代的リアリズムの感覚ではなく、一種のファンタジーとして読んでいた。これは私の無知、あるいは感覚の鈍さにも起因している。私は中国の歴史や政治事情について深く考えた経験を持たない。人並み程度の知識は持っているかもしれないが、それは所詮データに過ぎず、中国という国が身体性を帯びて私の前に立ち現れたことはこれまでになかった。そうであるからこそ、私は遠い国の御伽噺を聞くような感覚で本作にのめりこむことができたのだと思う。しかし、私はこのようにも思うのだ。作者が日本人であったならば、私はこの作品を楽しむことができなかっただろうと。
文学テクストは作者がどのような人間であるかといったことを加味して評価するべきではない。これは意識的にであれ無意識にであれ誰しもが思っていることだろう。しかし、本作のように、作者が中国人であるという事実がメタレヴェルにおけるパラテクスト*1として読者に働きかけることで、成立しなくなったはずの近代的リアリズムが瞬間的に機能するケースも存在するのだ。このような事実は私の信念を揺さぶり、様々な問いを生起させる。もしも、アゴタ・クリストフが「亡命」していなければ私は彼女の『昨日』という作品を楽しむことができただろうか……
このように考えていくと、移民文学や亡命文学を考える際、作者の存在をパラテクストとして組み込んだ読解を行なったほうがやはりテクスト自体の魅力を引き出せるように思う。同時に、文学の価値はそれが読まれる環境によっても変化してしまう局所的なものだということも私たちは理解しておく必要がある。おそらく『時が滲む朝』を中国人が読んでもさしたる感慨はないのではないかと思う。しかし、日本においてはそこに作者が中国人であるという事実がパラテクストとして機能するため、別種の環境のもとでの読書が行われることになる。
こうした作品に対して批評は精微な言葉を用いて語るよう留意すべきである。「作者が中国人だったので面白かったのです」では批評の言葉にならない。かといって作者を無視しての批評を行ったのでは、実際の読書行為における感覚との間にズレが生じてしまう。そうなると、私たちは作者の存在そのものを一つの要素、帯文や装丁などと同じように一種のパラテクストとして扱う批評を行う必要があるだろう。
中国人だからという理由で評価するのはおかしい、という意見に対して感覚的には同調したいのだが、やはり批評的な目線をとるならば、作者の国籍ですらテクストを構成する要素になってしまうという多くの創作者にとって遺憾なる現実を直視しなければならないだろう。
先日、東浩紀があるべき批評の姿について語る動画を見た(thanks for naoya-fujita)。それについて思うことは後日述べるが、いずれにしても批評を変えていくためには批評の土台となるべき認識から変えていく必要があるだろうと、動画を見て強く感じた。『時を滲む朝』を読み、そのようなことを考えた。ゼロアカ道場での批評、当然私は人々の批評に対する認識を変えるつもりで記す。

*1:ジェラール・ジュネットはパラテクストという概念について次のように記している「表題・副題・章題、序文・後書き・緒言・前書き等々、傍注・脚注・後注、エピグラフ、挿絵、作者による評依頼状・帯・カヴァー、およびその他数多くのタイプの付随的な、自作または他者の作による標識など」