前田司郎『逆に14歳』について――芥川賞一点予想

往々にして老人を題材にした小説はなんともいえぬ陰りに覆われているものである。まるで老いが人間の生における輝きをねこそぎ奪ってしまうものだと断言しているように。
ヘミングウェイの『老人と海』ほどの活発な老人像を求めるわけではないが、モブノリオの『介護入門』のように、現実にはいささかしんどい状況に対してもどこか軽やかな言葉を紡ぐ姿勢の方が、単に悲観的につらつらと老いの苦しみを書いた小説よりも切実な感情を惹き起こすことは確かである。
このような観点に立った場合、前田司郎の『逆に14歳』はごく稀にしかお目にかかることのできない軽やかな筆致を伴った小説だと言えよう。

一番そういうのの進行を感じるのは意外と二の腕の内側である。
ここがそうなってくるともうあれだ。つい10年くらい前までは、この辺はけっこうあれだったが最近はもうあれな感じになってしまった。あれ、シミだらけ。
ぺーちゃんが死ぬとは。
あれになって以来、会っていなかった。確かに酒が過ぎるところはあったが、死ぬなら事故だろうと思っていたが、まさか、病気で死ぬなんて、しかも、なんたらジストロファー? フィー? 腸ジストロフィー? 腸チフスっていうのもあったな、なんだっけ。
ところで俺は頭を洗ったか。まあ良い。洗ってなくてもどうせ毛はないのだ。

この出だしを読んだ時にいささか私はゲンナリした。「ここ」が「そう」なってくるともう「あれ」な文体に、ポストモダンリバイバル、いんちきな実験性の臭いを感じ取ってしまったのである。
しかし、じっくりと読み進めていくと、どうやらこの文体はかなり緻密に計算されたものであることがわかってくる。嗚呼、指示代名詞ばかりが思考に頻出し、考えていることに連続性がなく飛び飛びになってしまうというこの呟きは、まさに老人が見ている言語世界そのものではないか。それに気付いた途端、跳ねるように紡がれた言葉たちが、さながら言葉による演劇を思わせるものとして、心地よいリズムを刻み始めた。
書けなくなった作家である主人公と、演劇をやっていた白田。二人の老人の関係を中心に綴られていくこの小説は、老いの絶望よりもそれがもたらす世界認識の変化を、内容のみならず文体レベルでメタ的に構成することによって読者に伝達してくる。

「あれか、最後にヤッタのはいつだ?」俺は言った。
「俺はあれだ、あのー、なんだ? あれ、40くらいん時一度やったな」
「何年前だ?」
「40年くらい前か、もう忘れちまったよ」
俺は、去り行くオフィスレディの尻を観察している白田にわざと少し汚い言葉を使って言った「女のよ、あすこどうなってるか覚えてるか?」
「いや忘れた」白田は少し考えて答えた。
(中略)
「つまり、俺たちがバージンみたいだな、ということなんだけど、そういうのなんていうんだっけ? それの男のやつをなんていうんだっけ」
「そりゃあれだろ、男だからメンズ、メンズバージン、バージンメンだろ」
「いや、日本語だ、日本語であるだろ」
「ああ、童貞だ」

ここにある老いのどこに絶望の陰を感じ取ることができようか。満ちているものは希望である。我々の未来に不可避のものとして到来する老いが、再び我々を童貞へと押し戻し、女のあすこの形状について懸命に思考できるのだという救済である。
そして『逆に14歳』というこのあまりにも鮮やかなタイトル。我々がこの世に生を受けてから現在までの時間のカウントとして年齢を設定するのとは異なり、本作の老人達にとっての年齢とは生の終わりまでに残された時間を意味しているのだ。彼らは0歳になった時に知る。手塚治虫が『火の鳥』で絶望の極致として示した時間の逆転が、なんと救いに満ちたものとして描かれていることか。
老いの楽しみや老後の生き方を書いた浅薄な幸福本よりも、本作ははるかに多大な光を、軽やかな言葉によって運んでくる。
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そんなわけで次回の芥川賞予想は『逆に14歳』の一点張りでいきます(まだ9月だから気ぃ早すぎではあるけれど)。最高に面白かった。まだ単行本化されてないですけど、「新潮」の10月号に掲載されているので、興味を持った方は大きめの書店に足を運ぶといいのではないかと。それにしても僕はやはり演劇人たちの小説にだいぶ惹かれてしまうところがあるようです。前回の芥川賞候補作の中でも、一番楽しんで読めたのは本谷有希子さんの『あの子の考えることは変』でした。演劇の語りを小説の中に取り入れることは相当難しいはずで、それを上手く実行している本谷さんや前田さんは凄いなあとただただ感心するばかりです。

話は変わりますが、『群像』の10月号には高橋源一郎の『日本文学盛衰史』の戦後編が収録されています。新連載なので、これからも楽しみ。最近の高橋さんはいささか自分のゼミ話を使いすぎているとも思いますが、やはり要所要所でのキレはバツグン。
あと、『新潮』では朝吹真理子さんの『流跡』が素晴らしかった。現代詩とヌーヴォーロマンのミックスと言うのはそれなりに適当な表現かとも思いますが、それだけではあまりに残念なのでそのうちまともな批評を書いてみたいところです。とりあえず、先月の文芸誌はあまりにも熱かった。そんな感じで、来月も楽しみですなどと無難な言葉を残し、失礼します。