エロゲーの未来について真剣に考える

なんか色々仕事の話で書くことがあった気がするけれど、今日はそんな気力がないのだった。とりあえず12月と1月に出るものの話は近々書きます。あ、あとコミケでは多分コスプレしてます、誰がやっても叩かれるだろうキャラをやろうと思います。

「財布と携帯をなくしPCデータが飛んだ。俺たちはおしまいだ。」
昨日酒を飲んでいたら「Forest」の話が出て感動。世界に田中ロミオと並ぶエロゲライターがいるのなら、それは間違いなく星空めておなのだが、どうもイマイチ知名度が低い気がする。ライトノベル業界に参入してくれれば爆発する予感もするのだが。

そういえば2009年、俺はほとんどエロゲーをやっていない。忙しかったからとか物理的制約もあるわけだけど、やはり寝る間を惜しんでやりたくなるようなキラーコンテンツがなかったというのが最大の理由だろう。

ぶっちゃけ今のエロゲ業界はライターでいえば5人くらいで回っている(象徴的な意味では)。奈須きのこ田中ロミオ丸戸史明を押さえとけば大体分かる。

問題はこれから後続が出てくるのかということだが、パッと思いつくのはやはりkeyの都乃河とnitroの下倉バイオ。前者はリトバスのライターでもあるのだが、まだ実力は判らない。リライトでロミオと竜様に喰われないかどうかが勝負。下倉バイオに関しては、スマガとシュタインズゲートによってスターダムへの道が開けた気もするが、ぶっちゃけ俺はもうループゲーに未来はないと思っているので、ゼロ年代も終わるし、新しい武器を手に入れてほしい。

あー、今年。今年ね。もう終わるね。2009年ベスト10とか作りたいけど、多分今年出たゲーム10本もやってない。けどまあ俺つばと真剣恋は面白かったですよ。前者は期待ほどではなく、後者は期待以上だった。

来年のことを考えると、まずはkeyの『Rewrite』、めておの『Girl's work』、きのこの『魔法使いの夜』あたりをベースに、予想外の面白さを備えたゲームがどれだけ出てくるか。

しかし今のエロゲの停滞感は何とかならんだろうか。二つぼんやりと考えてることがある。一つには、昔作った同人誌で書いた批評の話とも繋がるのだが、『痕』や『果て青』にあった「不気味なもの」を取り戻すという方向性。うみねこがなんだかんだ面白いしヒットしまくってることを考えると、もう一回リバイバルが来てもいいと思う。そして民話や伝奇の想像力をどんどん活用して、それをここ10年で変化した萌えと組み合わせれば、新しい市場が開けそうである。もう一つは、方法論の縮小、いくつか禁じ手を自ら作ってしまうことである。具体的にはメタ視点、ループ、白痴少女などなどのセカイ系要素を完全に封印してゲームを作ろうとする意思を持った方が面白いものは出てくるのではないかということだ。ぶっちゃけもうセカイ系は飽きた。いや、正確にはテンプレ化して記号的にサクサク使われるセカイ系の諸要素にいささかウンザリしている。パラダイムシフトのためには、構造レヴェルとキャラクターレヴェルでタブーを設定していくしかないんじゃないだろうか。先に挙げた俺つばとマジ恋が良かったのはこの辺の要素を完全にハジいているからだ(逆に言えば、ポストセカイ系として俺つばやマジ恋のラインを語っていくことは出来そうだ)。しかし、ここまで書いて気付いたが俺の思考は明らかに宇野常寛にだいぶ侵食されている。

俺の考えを整理するとこういうことである。①セカイ系の構造は2004年頃までは素晴らしかった②しかし、それ以降ループやメタ構造が駄目なテンプレとして機能してしまった③かつての「不気味なもの」は健全化した業界によって淘汰されたが、今の状況では逆に武器になるのではないか④ただし、「伝奇系」をリーンカーネイトさせるためにはゼロ年代におけるキャラクターや物語のパラダイムシフトを組み込む必要がある⑤エロゲーの未来はそこから始まるのだっ!!

ちなみに全てのエロゲーマーが読むべきあまりにも素晴らしい本として『美少女ゲームの臨界点』(2004)があるわけだが、あそこにいつまでも甘えているのはやはり駄目だろう。俺たちはトラウマ少女の誘惑から脱出して、少女に無駄な傷を負わせずに展開されるドラマについて考えた方がいい。最近俺は友人たちに「おまえフェミくさくなってるよ」と言われるがその通りである。俺は女の子をまず弱者や「救われる者」として設定して、プレイヤーが「救う者」を気取れる物語構造に嫌気が指している。ある種これはエロゲーマーとして決定的な転向であり、セカイ系パラダイムからの離反でもある。なんで俺がこんな気分になっているかを説明するには、なぜ今俺が腐女子を嫌っているのかという話から入らないといけなくなるので割愛である。

いずれにせよ、2010年はエロゲー的に超重要な年になると俺は予想している。それはセカイ系(リライト)が勝つのか伝奇系リバイバル=ポストセカイ系(ガールズワーク、魔法使いの夜月姫)が打ち倒すのかという決定的な問題を2010年は含んでいるからだ。当然、今の俺は後者に未来を見ているが、市場のことはわからない。ただ、全てがテンプレ化していく世界に未来はないだろうということだけは断言できる。

mixi同級生 with pain

おぉふ……
ちょっとだけ放置のつもりがすでに二ヶ月経過しているとわ。

さっきmixiを覗いたらmixi同級生なる新しいコンテンツが実装されてて、早速登録して昔のお友達はおらんかねと探してみると、なんと初恋の女の子を発見、甘酸っぱき時代を思い起こしつつコンタクトとかとっちゃおうかなーとか考えていると、
「2008年、双子のBABYを出産しましたー!!」
の一言。しかも純真可憐だったはずの彼女は思いっきりガングロB−GIRLに進化していたのだった。
mixi同級生。紛れもなくトラウマ生成装置である。

12月はもっとこまめに更新しよう……文フリやコミケもあるしね。

ユリイカ10月号「特集 福本伸行」に寄稿しました

おはようございます、坂上です。
ユリイカの「福本伸行」特集に『モル的な闘牌―赤木しげる桜井章一』を寄稿しました。麻雀に興味のない人には何を言ってるのかさっぱりわからないだろう批評ですが、ルール程度でも知っている人は是非。
あと、今回は「福本伸行全著作解題」も担当しています。僕の担当分は『アカギ』、『天』、『賭博堕天録カイジ』、『銀と金』、『熱いぜ天馬』、『春風にようこそ』、『銀ヤンマ』になります。福本の麻雀漫画が全て僕に回ってきています。どうやら僕は重度の雀キチとして編集部に認識されているようです。解題といってもみんなそれなりに主観的に書いていますので、そこそこ物語性は高いものになっているかと。楽しんでもらえれば幸いです。

その他ラインナップはこんな感じ。

特集*福本伸行 『アカギ』 『カイジ』 『最強伝説 黒沢』・・・賭けつづけるマンガ家
【対談】
「ドル箱」 いっぱいの愛を! 勝ち負けと、その先 / 福本伸行×大槻ケンヂ
【初期作品】
いけないカッちゃん ラブストーリー / 福本伸行
【福本という作家】
愚直の人 / いしかわじゅん
“モテない男” にも五分の魂 / 南信長
〈必然〉と〈偶然〉からの福本伸行論 / 三浦俊彦
【『アカギ』 あるいは、〈理〉を超越する意志】
合理的な不合理主義者としてのアカギ / とつげき東北
モル的な闘牌 赤木しげる桜井章一 / 坂上秋成
【『カイジ』 という祝祭の場】
賭博者(モラリスト)としての 「カイジ」 / 前田塁
実写化という 「エスポワール」 / 大森美香 [聞き手=宇野常寛
【『黒沢』――闘争への序曲】
天はクズの上にクズを造らず 『最強伝説 黒沢』 論 / 杉田俊介
ガジェットと木偶の坊 黒沢の最強伝説にみられる戦術について / 池田雄一
【僕等の手の在処】
賭博漫画と悪 福本作品のリアリティについて / 酒井信
決起の論理 『カイジ』、『最強伝説 黒沢』、そして秋葉原事件 / 白井聡
心と世界が交互するざわめき / 中田健太郎
ゆがみの図像学 「ぐにゃあ」 と世界が崩れたら / 麻草郁
「未来は僕等の手の中」 ブルーハーツ福本伸行 / 川島章弘
リーダーはみんなのために 福本キャラと戦国武将に見るリーダーシップ / 榎本秋
【資料】
福本伸行全著作解題 / 編=市川真人

僕もまだ全部読んだわけではないのですが、今のところ素晴らしい出来だと思えるのが前田塁によるギャンブル論。本気でギャンブル狂いなんじゃないかと思わせる気迫が文章から漂ってきます(笑)ローマの歴史家タキトゥスの話から始まる辺り、前田さんのセンスが光っています。「無謀さをいつ、どこに投入するか」が〝賭博〟にとって真に重要だとする議論には全面的に賛同したいところです。

あと、自分の話で恐縮ですが、今回麻雀について批評を書いているのは僕ととつげき東北氏の二人で、共に『アカギ』をベースに思考しているにもかかわらず、麻雀そのものに対する考え方は全く別物になっています。いや、お互いがお互いの全てを否定する文章を書いているといっても過言ではないくらいです。ただし、ここでの対立はどうも世間によくある「デジタルvs流れ論者」というくだらない枠組みとは大分異なるもののように思えます。もちろん、大まかな括りとして、僕が流れ論者でとつげき東北さんがデジタルということにはなるのですが、どうやら決定的な差異を産み出しているのは麻雀というゲームの目的をどのように捉えているかというところにありそうです。とつげきさんは、『科学する麻雀』や今回の論考を読む限り、徹底して麻雀というゲームの客観的な真理を探ることを目指し、そこから勝利に辿りつこうとしています。それに対して、僕の場合は――全くの未熟者ですが――桜井章一の教えに従って打ってきた者として、麻雀に勝利することのみならず、闘牌を繰り返す中で人間的な成長をも目指さなければならないと考えています。このようなゲームにおいて何を目指すかという目的の違いが、打ち筋のズレにも繋がるのだろうし、ネット麻雀という新しい形態の麻雀への認識のありかた――言うまでもなくとつげきさんは肯定派で僕は否定派です――にも関わってくるのだろうと思います。いずれにしても、論考を合わせて読んでいただくと、麻雀ファンの方は一層楽しめるのではないかと。
それにしても、とつげきさんと僕との対立はそのまま自然科学的エリートと街の雀ゴロの対立みたいになっていて、必然的に僕が頭悪く見えてしまうというのが困り物です(笑)

そんな感じで、ご意見ご感想等ありましたら、コメント欄やメールで伝えていただけると幸いです。こんな記事書いてたら早いとこ一仕事終えて麻雀打ちたくなってきた……

前田司郎『逆に14歳』について――芥川賞一点予想

往々にして老人を題材にした小説はなんともいえぬ陰りに覆われているものである。まるで老いが人間の生における輝きをねこそぎ奪ってしまうものだと断言しているように。
ヘミングウェイの『老人と海』ほどの活発な老人像を求めるわけではないが、モブノリオの『介護入門』のように、現実にはいささかしんどい状況に対してもどこか軽やかな言葉を紡ぐ姿勢の方が、単に悲観的につらつらと老いの苦しみを書いた小説よりも切実な感情を惹き起こすことは確かである。
このような観点に立った場合、前田司郎の『逆に14歳』はごく稀にしかお目にかかることのできない軽やかな筆致を伴った小説だと言えよう。

一番そういうのの進行を感じるのは意外と二の腕の内側である。
ここがそうなってくるともうあれだ。つい10年くらい前までは、この辺はけっこうあれだったが最近はもうあれな感じになってしまった。あれ、シミだらけ。
ぺーちゃんが死ぬとは。
あれになって以来、会っていなかった。確かに酒が過ぎるところはあったが、死ぬなら事故だろうと思っていたが、まさか、病気で死ぬなんて、しかも、なんたらジストロファー? フィー? 腸ジストロフィー? 腸チフスっていうのもあったな、なんだっけ。
ところで俺は頭を洗ったか。まあ良い。洗ってなくてもどうせ毛はないのだ。

この出だしを読んだ時にいささか私はゲンナリした。「ここ」が「そう」なってくるともう「あれ」な文体に、ポストモダンリバイバル、いんちきな実験性の臭いを感じ取ってしまったのである。
しかし、じっくりと読み進めていくと、どうやらこの文体はかなり緻密に計算されたものであることがわかってくる。嗚呼、指示代名詞ばかりが思考に頻出し、考えていることに連続性がなく飛び飛びになってしまうというこの呟きは、まさに老人が見ている言語世界そのものではないか。それに気付いた途端、跳ねるように紡がれた言葉たちが、さながら言葉による演劇を思わせるものとして、心地よいリズムを刻み始めた。
書けなくなった作家である主人公と、演劇をやっていた白田。二人の老人の関係を中心に綴られていくこの小説は、老いの絶望よりもそれがもたらす世界認識の変化を、内容のみならず文体レベルでメタ的に構成することによって読者に伝達してくる。

「あれか、最後にヤッタのはいつだ?」俺は言った。
「俺はあれだ、あのー、なんだ? あれ、40くらいん時一度やったな」
「何年前だ?」
「40年くらい前か、もう忘れちまったよ」
俺は、去り行くオフィスレディの尻を観察している白田にわざと少し汚い言葉を使って言った「女のよ、あすこどうなってるか覚えてるか?」
「いや忘れた」白田は少し考えて答えた。
(中略)
「つまり、俺たちがバージンみたいだな、ということなんだけど、そういうのなんていうんだっけ? それの男のやつをなんていうんだっけ」
「そりゃあれだろ、男だからメンズ、メンズバージン、バージンメンだろ」
「いや、日本語だ、日本語であるだろ」
「ああ、童貞だ」

ここにある老いのどこに絶望の陰を感じ取ることができようか。満ちているものは希望である。我々の未来に不可避のものとして到来する老いが、再び我々を童貞へと押し戻し、女のあすこの形状について懸命に思考できるのだという救済である。
そして『逆に14歳』というこのあまりにも鮮やかなタイトル。我々がこの世に生を受けてから現在までの時間のカウントとして年齢を設定するのとは異なり、本作の老人達にとっての年齢とは生の終わりまでに残された時間を意味しているのだ。彼らは0歳になった時に知る。手塚治虫が『火の鳥』で絶望の極致として示した時間の逆転が、なんと救いに満ちたものとして描かれていることか。
老いの楽しみや老後の生き方を書いた浅薄な幸福本よりも、本作ははるかに多大な光を、軽やかな言葉によって運んでくる。
***
そんなわけで次回の芥川賞予想は『逆に14歳』の一点張りでいきます(まだ9月だから気ぃ早すぎではあるけれど)。最高に面白かった。まだ単行本化されてないですけど、「新潮」の10月号に掲載されているので、興味を持った方は大きめの書店に足を運ぶといいのではないかと。それにしても僕はやはり演劇人たちの小説にだいぶ惹かれてしまうところがあるようです。前回の芥川賞候補作の中でも、一番楽しんで読めたのは本谷有希子さんの『あの子の考えることは変』でした。演劇の語りを小説の中に取り入れることは相当難しいはずで、それを上手く実行している本谷さんや前田さんは凄いなあとただただ感心するばかりです。

話は変わりますが、『群像』の10月号には高橋源一郎の『日本文学盛衰史』の戦後編が収録されています。新連載なので、これからも楽しみ。最近の高橋さんはいささか自分のゼミ話を使いすぎているとも思いますが、やはり要所要所でのキレはバツグン。
あと、『新潮』では朝吹真理子さんの『流跡』が素晴らしかった。現代詩とヌーヴォーロマンのミックスと言うのはそれなりに適当な表現かとも思いますが、それだけではあまりに残念なのでそのうちまともな批評を書いてみたいところです。とりあえず、先月の文芸誌はあまりにも熱かった。そんな感じで、来月も楽しみですなどと無難な言葉を残し、失礼します。

もうすぐアニメ化されそうな少女漫画を予想してみる

椎名軽穂の『君に届け』が近々アニメ化されますね。それにちなんで、というわけではないですが、「この作品は流石にアニメ化されるだろう」という少女漫画を二つばかり期待も込めてピックアップしてみたいと思います。

ちはやふる末次由紀

ちはやふる (1) (Be・Loveコミックス)

ちはやふる (1) (Be・Loveコミックス)

はい、これはもう鉄板ですね。100パー来年にはアニメ化されるだろうと言い切ってもいいくらいの大傑作です。いや、末次先生、よくぞ復帰してくれました。
かるたという一般にはひどく地味な印象を持たれている競技をここまで魅力的に描く技術は素晴らしいの一言。簡単にあらすじを紹介しておきます。
主人公の綾瀬千早は小学生の時分、名人の孫である綿谷新にかるたを教わり、真島太一を含めた仲良し三人組でかるたの楽しさを味わっていくのだが、新はさっくりと転校。そこから舞台は高校時代に飛び、東京に残った千早は太一と共にかるた部を作り、全国大会で新と再開することを誓うのだが、新は名人である祖父の死によるショックでかるたから離れてしまっていた。そんなこんなで色々な人間関係を含みつつ、千早率いる瑞沢高校かるた部は全国大会へと勝ち進み、そこでクイーンに惨敗したことで千早はようやく自分の夢を具体的に意識する……
ざっくり言ってしまえば「ヒロインの千早がかるたクイーンを目指す物語」です。ここで素晴らしいのが、単行本がすでに6巻まで刊行されているにもかかわらず、ほとんど色気のある話が出てこない点。新とも太一とも友達以上恋人未満(これは今月号の「BeLove」の表紙についていたキャッチコピー)な関係を保ちつつ、物語の中心はあくまでもかるたに懸命に取り組む千早と仲間達の姿。いささか主観的な物言い、というよりも少女漫画を全否定するような物言いになってしまうことを承知で言いますが、恋愛って物語においてかなりどうでもいい要素だと思うんですね。『風と木の詩』のセルジュや『トーマの心臓』のトーマ・ヴェルナーのような命を懸けた「愛」ならばともかく、中高生のうっすい恋愛模様とか結構どうでもいいと思うんですよ。最近は『星は歌う』とか『乙男』とか、「ホスト部」とかマジでヌルいコイバナ物ばかりが取り上げられアニメ化されてますが、少女漫画における「愛」とか「恋」ってそういうもんじゃないだろーと突っ込みを入れたくてしょうがない。
ちはやふる』の場合、恋愛よりも先に夢や情熱が来ていて、そこの熱量が圧倒的に凄いわけです。

末次さんの演出や絵の上手さも相まって、札を見つめるシーンではこちらの息が詰まりそうになるくらいのリアリティがあります。そうしたある種の緊張した空間を形成する仲間がいて、彼らを大切に思うというのは、浅薄なくっついた/別れたを描く漫画よりもよほど「愛」に満ちている。どうにも、最近の少女漫画は、「恋」と「尊敬」を完全に分断して前者だけを抽出してくるようなところがあって気持ち悪いなあと思ってしまうのです(ちなみに『君に届け』はまさにこの二分法を問題にしているので批評的に好きです。いい加減貞子の鈍感さがウザいけど)。
そんなわけで、今『ちはやふる』がアニメ化され、ブームとなれば、少女漫画全体の方向性にも影響を与えてくれるんではないかなと思います。すでに本作は「日本マンガ大賞」も獲得し、「このマンガがすごい!!」の少女漫画部門でも昨年3位に入っているので、自然にアニメ化されそうな気もしますが。

うさぎドロップ宇仁田ゆみ

うさぎドロップ (1) (FC (380))

うさぎドロップ (1) (FC (380))

ざっくり言ってしまえば育児漫画。主人公が大吉は祖父の隠し子であったリン(当時6歳)を引き取るところから物語は始まる。育児漫画とは言っても子育ての苦労をネガティブに描くわけではなく、問題を抱えつつも大吉とリンが幸せに暮らしていく描写が素晴らしい。なんだけど、この作品が本当に面白くなるのは5巻以降だと思われます。5巻になると、6歳だったリンは突如高校生に進化していて、進学や恋に悩む普通の女の子になっています。
ただ、これが単なる恋愛漫画と違うのは、ストーリーの目として常に父代わりである大吉が機能しているという点です。リンの「お相手」であるコウキ君は幼稚園からの幼馴染で、大吉とも家族ぐるみでの縁があります。大吉がコウキやリンを大切に思うように、二人も大吉を象徴的な父親として信頼しています(ちなみにコウキの両親は離婚しており、母親と二人暮しという設定になっています)。そして私たち読者は大吉の眼を通して物語を辿ってきたがゆえに、コウキとリンの恋愛に対してもどこか父親的な視線を送ってしまう。
ここには感情移入の錯誤があります。つまり、私たちは単にリンに萌えるのではなく、コウキとリンの二人の関係性そのものを応援する心理になるわけです。当たり前のことですが、恋愛が二人だけで完結するような地平に、我々はそうそう遭遇することはありません。友達や家族、社会といった環境の磁場に置かれながら我々は恋をする。少女漫画でしばしば見失われがちなこの環境に対する視点を、幼少期からのリンをデータとして読者に伝えることで確保する(=自分を親であると錯覚させる)という技法が本作には用いられています。
宇仁田ゆみは、おそらく少女漫画家というよりはレディースコミック畑の人という認識の方が強いはずです。ただ、岡崎京子安野モヨコこいずみまりといった作家の方が、むしろ「愛」を誠実に描こうとしているというのが最近の僕の考えです。どうにも、今の「花ゆめ」や「りぼん」は「遠景なきセカイ系」とでも呼ぶべき様相を呈している。それに比べると、レディコミ系の作家やエロティクス系の作家(志村貴子さんとかですね)、あるいはよしながふみ中村明日美子などのBL作家の方がよほど「少女」を知っているように思われるのです。


・そんな感じで『ちはやふる』と『うさぎドロップ』。この二つは来年あたりアニメ化されるだろうという予想でした。他にも色々といい漫画はあるんですが、なにぶんアニメ化したときに動きが乏しくなりそうなものが多いんですよね。『テレプシコーラ』とか、今の山岸さんの絵だとアニメにするのは厳しいだろうし、『放浪息子』なんかもテーマ自体が重いし。
もちろん、いい作品が全てアニメ化されなければならないなどと考えているわけではないのですが、昨今の少女漫画→アニメ化の流れだと、面白い作品が知られないまま少女漫画のパブリックイメージが形成されそうなので、いくつかの作品にはテレビで流れてほしいなあと思ったりもするのです。

今日のエヴァ本

■東M-20a emptiness

佐藤心×村上裕一が熱い

エヴァ小説(未完成)を寄せてます

■なぜ未完成かというと、僕がインフルエンザだからです

■すいません

■他にもコンテンツ盛りだくさん

■お時間あればよろしく

ゼロアカ原稿終了+雑記

■一年四ヶ月に渡って展開されてきたゼロアカ道場なる企画がいよいよ終わりに近づいている。原稿も提出し、あとは11日の発表を迎えるのみだ。
感想、報告などはまた11日以降にやるとして、ひとまず、応援してくれた人、関わってくれた人に心よりの感謝を。ありがとうございました。


■今後の予定。どちらもまだ詳細は言わないけど、8月は商業誌の仕事と同人誌に終われることになる。それと別件で小説も書いている。なので実は全く暇になっていなかったりする。
これだと何の情報にもなってないですね。こちらも詳細は次回!みたいな、感じで。あ、同人誌はとりあえずコミケ三日目に出ます。主幹の許可が出たらブログで報告します。


■昨日は峰尾と村上と深夜にカラオケに行ってた。「これはカラオケ動画を撮るべきなんじゃないか、圧勝だから」という話が出た。鹿男の歌う「与作」との格の違いを見せ付けるというのも面白いんじゃないかと思った。


■今やるべき作業のうち三分の二くらいがエヴァに関わるものだったりする。劇場版は三回観て来た。とりあえず俺は「破」が最高最高と言ってるわりに何がどう凄いのかをブログで全く書いていないので、今書いている/修正している原稿でその素晴らしさを伝えることができればと思う。ちなみにコミケ同人誌にはエヴァ小説も書く。俺はこれまで絶対に同人誌ではたとえ二次創作であろうと小説は書かないというルールを設定してきたのだが、エヴァ破への愛はそんな縛りを軽やかに飛び越えてしまうほどに、深い。

■明後日から、熊野大学という文学セミナーに3日ばかり参加してくる。場所は新宮市だ。久しぶりの小旅行、熊野の空気の中で小説の可能性と未来を想うというのはなかなかに胸が躍る話である。
話は変わるが、ゼロアカ第二回企画会議で、太田さんに「温泉とか行ってても駄目だよ!」と言われた俺は、友達がパーティーをやるというのでそれにホイホイついていって何かを変えてやろうと目論んだのだが、実際には「パー→ティー→」ではなく「パー↑ティー↑」で、こわいオニイチャンと話の通じないオネエチャンと大音量のライブハウスでゆらゆらと身体を動かすイベントだったため、キモオタヒッキーの俺は久しぶりのリア充空間にビビってしまい、批評のインスピレーションどころではなく、ションボリとした気持ちのまま帰宅した。やはり俺には自然とたわむれて花火をするとかそういうイベントの方が性に合っている。ついでに言っておくと、ゼロアカ動画で俺は「7月3日に二十人規模の合コンを開き、半裸になって、We are the worldを歌い、店員に二回怒られた」ということにされているが罠である。実際には合コンではなく、「原稿上がったから飲みに行こうぜ」という趣旨のメールと電話を何人かに送ったら人数が二十人にまで勝手に膨れ上がっていたというだけの話であり、要するに単なる飲み会である。そして半裸になったのは後輩である。なので俺は無実だと叫びたいところなのだが、色々と話を聞いてみるとどうも清廉潔白というわけではないようで、後輩が言うには、「マイケルゥゥゥ!!!」と叫んだあとにWe are the worldを歌い店員さんにマジ切れされたことは事実のようである。世界には嘘も真実も存在する。しかしその中で一番性質が悪いのは真実を微妙に含んだ嘘である。罠がいっぱいである。

■それではまた近いうちに。ブログか紙面かコミケでお会いしましょう。ちゃお。